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東京地方裁判所八王子支部 昭和43年(わ)481号 判決

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、

被告人は国立市国立一三番ノ一九において産婦人科外科医院を開業している医師であるが、昭和四〇年七月一六日午後四時ころから約五〇分間にわたり同医院において田原靖子(当時二三年に対し帝王切開手術を実施したが、医師としては、同女が妊娠中毒症により高血圧が二か月間位存続していたので同手術後の経過が悪化することも予想されるから、自ら適時回診を行うか、又は宿直者をして正確な観察記録を報告せしめて悪化のおそれのある場合には、直ちにこれに対する医療措置をとるべき業務上の注意義務があるのに拘らず、これを怠り、同日午後六時ころから翌一七日午前四時ころまでの約一〇時間にわたつて同医院二階六号室に就床している右田原靖子に対する観察を宿直勤務のいずれも看護婦、準看護婦の各資格を有しない高橋カツ子(当時二五年)、同平野暁子(当時二一年)の両名にまかせて自らは一回も回診しないのみでなく、同月一六日午後一〇時ころ、右高橋カツ子から上記田原靖子の脈搏がまだ正常でない旨の報告を受けたのに拘らず、単に注射を指示したのみで自らは回診をしなかつた業務上の過失により同月一七日午前四時一五分ころ同病室において同女をして術後ショックにより死亡させたものである。

というのである。

当裁判所の判断

第一、田原靖子が帝王切開手術を受け死亡するまでの経緯

証拠によると

田原靖子(以下単に患者という)は、昭和三九年一二月四日および同月九日被告人医院で被告人の診察をうけ妊娠と診察され(出産予定日は昭和四〇年七月二二日)その後昭和四〇年二月四日、三月一八日、四月二日、五月四日、同月一七日と定期的に通院診療を受けていたが、五月二六日受診時腰部の痛みを訴え、血圧170/分―110/分と高く、尿蛋白陽性で被告人は妊娠腎と診断したが、血圧専門医の嶺崎巌医師に同女の診察を依頼し、同医師は腎性高血圧症に罹患と診察した。そこで被告人は患者に入院治療をすすめ、同女は五月二九日被告人医院に入院したが、間もなく退院を希望して同月一二日退院し、引き続き通院治療をつづけたのに病状好転せず、高血圧症は軽快したもののなお尿蛋白陽性で、腎に異状あり、下肢に浮腫があり、食慾減退して息ぎれするなどの症状を呈した。右嶺崎医師は、被告人に対し早期に帝王切開手術を施行するように忠告し、被告人は患者の骨盤が狭く、子宮膣部の状態、胎児発育状態等を考慮して経膣分娩時に子癇発作をおこす危険を考えて帝王切開手術を施行すべきであると判断してその旨患者の了解を求めたうえ、同年七月九日心臓専門医の斉藤俊吉医師に患者の診察を依頼したところ、同医師は心臓に異状はない、直ちに入院させて帝王切開手術を実施するよう忠告し、同月一二日患者は被告人医院に入院して治療をうけた。被告人は同月一六日帝王切開手術を施行することの手配をし、事前に患者の心電図を撮つて右斉藤医師にその鑑定を求めて異状なしとの報告をうけ、患者は手術前血圧140/分―70/分で体調良好であつたので、午後三時ころ手術前硫酸アトロピン等を投与し、同三時三〇分ころ患者を病室から手術室に入れ、閉鎖式循環式麻酔(エーテル使用)で全身麻酔をかけ午後四時ころ、術中術後の循環血液量の減少を予防するためにソーアミン五〇〇CCの点滴静注を施行し、婦長看護婦森本芳子外数名の看護婦を援助させて被告人執刀のもとで帝王切開手術を実施し、同四時二〇分ころ二三六〇グラムの未熟児を分娩させ、次いで虫垂切除手術を通して同四時五〇分ころ右手術を終えた。なお患者は術後の血圧は120/分―80/分、脈搏毎分一三〇であつた。被告人は右手術後患者を手術室において、その血圧、麻酔覚醒状況等を看視し午後六時ころ患者を病室に移した後同室で患者に異状のないのをたしかめ終夜酸素吸入をつづけさせ、当直者高橋カツ子、同平野暁子に看護を命じ、当直室より一〇メートル離れた右当直室と同棟の被告人居室にもどつて休息した。右病室では患者の夫田原章夫、患者の母赤羽たつ子が附添い、患者の看護は高橋カツ子がもつぱら担任し、一時間ごとに右病室をおとずれ患者の血圧、脈搏、尿量、顔色、出血の多寡その他一般状態を観察して被告人にこれを報告していた。午後一〇時ころ被告人は右高橋より血圧は正常だが脈搏が弱く、呼吸がおかしいとの報告をうけ、同女にビタカン、ジキラノーゲンO、ブドウ糖の混合注射をするよう命じて注射させ、午後一二時ころ就寝前右当直室に赴いて田原靖子の病状報告をうけ尿がでているかどうかをさらに聞きただし、その異状のないことをたしかめて前記居室に戻つて就寝した。高橋カツ子は午後一二時ころ病室をおとずれ前記どおりの観察を終え後は同病室へ入らず翌一七日午前二時頃病室のガラス窓ごしに患者を観察して異状なしと認めて当直室に帰つた、ところが午前三時半過ぎ頃患者の容態が急変し、全身冷汗、呼吸困難、脈搏頻数で弱くなり三〇分後ころ死亡するに至り、被告人は患者の死因を妊娠中毒症による心衰弱と診断した。

第二、患者の死因について

検察官は、本件患者の死因は前記のとおり術後ショックである旨主張するのでその点につきまず検討する。本件患者の死因については、死後において解剖もされておらず、また死亡直前の身体症状についての検査データーもないため明確に把握することができず、結局本件患者の生前における臨床症状の諸資料から死に至る蓋然性の最も高いものをその死因として憶測する以外に方法はない。ところで、被告人は患者の死後、その死因について心衰弱である旨診断しているが、心衰弱を来した原因について妊娠中毒症とあるのみで死因といえるほど明確なものでないから、これによつて直ちに患者の死因を確定することはできず、我妻堯作成の専門的助言と題する書面ならびに第一三回公判調書中同人の供述部分によれば、本件患者の死因として末梢循環虚脱、いわゆる術後ショックの可能性が最も高く、ついで肺浮腫の可能性が強いとして、検察官の主張に沿う推論をしているが、その根拠として、本件患者が術後にいわゆるショックを起した可能性を十分に示唆するものは、見習看護婦高橋カツ子のメモおよび森本芳子の供述にみられる本件患者の脈搏数であるとし、すなわち、本件患者の正常脈搏数は五月二九日入院以降手術当日までの間60―85/分で正常健康人の範囲内にあつたのにその脈搏数が手術直後130/分であり、帰室後も午後一〇時まで(高橋メモによれば)、ひきつづいて118/分―130分と常に毎分100以上を示していたことは、減少した心搏出量(一回当り)を心搏数の増加によつて代償しようとした機序が働いていたということになり、換言すれば、術後脈搏数が130/分であつた時点から本件患者のショック状態が始まりかけていたと看做すことができるというのである。しかしこの点につき、鑑定人野嶽幸雄の昭和四四年七月一日付鑑定書によれば、外傷乃至は手術侵襲によるショック(術後ショック)は本件のような短時間内の手術で、術前処置、全身麻酔下で行われた手術では極めて稀有の存在であると、右蓋然性を否定するところであるし、患者帰室後の脈搏数が前記のようなものであつたかどうかを按ずるに、右高橋メモの数字は、昭和四一年一二月二七日同人が検察官の取調べの際たんなる記憶にもとづいて作成したものであり同人の昭和四〇年八月二日司法警察員に対する供述調書中「同人が午後一〇時ころ患者の病室を見廻つたところ脈が弱く、呼吸が荒いと感じたので血圧を計つて見ましたところ、血圧は一一〇ありました。」旨の供述と比較し、数字に対する記憶力を考慮すると高橋メモの数字はにわかに措信できず、右時点における患者の脈搏は弱かつたとの事実を肯認できるだけである。次に右専門的助言によると、帝王切開術等の比較的大きな手術で、とくに、術前硫酸アトロピンの投与、エーテル麻酔を行つた場合、手術直後脈搏が毎分一〇〇を超えることは必ずしも稀ではないといい、また麻酔等の影響のみによる脈搏増加は通常術後二、三時間で正常に回復するというところであるが、第一七回公判調書中証人東京大学教授坂元正一の供述部分によれば帝王切開の手術後一〇〇以上の頻脈が五ないし六時間見られることがよくあり、その点だけで二次的ショックが始まつていると考えることは非常に困難である。また術後ショックが起つていたとすれば脈搏が増加するばかりでなく、血圧もあがり呼吸困難となり急に青ざめる等全身状態に変化を生じ、看護人において、その変化を認め得るとされる。第一五回公判調書中野嶽幸雄の供述部分によつても、頻脈のみによつて外科的(術後)ショックを鑑定するのは根本的に間違つており、最低と最高の血圧の差とか尿量をも問題にすべきである旨述べておるので証拠を按ずるに高橋カツ子の検察官に対する(四一、七、一付および四一、一二、二七付)供述調書、証人高橋カツ子の供述部分(第三回公判調書)田原章夫の検察官(四一、一、一七付、四一、一二、二七付および四三、七、七付)に対する供述調書証人田原章夫の供述記載(第七回公判調書)証人赤羽たつ子の供述部分(第一九回公判調書)によると、患者は帰室後午後七時半頃麻酔が覚醒し、午後九時ころまでの間は脈搏の点を除いて排尿も通常で、血圧、顔色、呼吸、その他全身状態に変化がなかつた。午後一〇時ころ高橋カツ子が見廻つた際患者の脈が少し弱く、呼吸が荒いと感じて前記のとおり被告人にその旨報告し被告人の指示によつて注射をした。その後翌午前三時ころまで患者の全身状態に特段の異状がなかつたことが認められるところであつて、本件患者の死因が術後ショックであるとの証明は不十分であるように思われる。

次に前記我妻助言によると本件患者の死因として考えられるのは右術後ショックの外肺浮腫、麻酔死、羊水栓塞空気栓塞その他の静脈血栓の栓塞、出血死、急性黄色肝萎縮をあげるところであるが、いずれもその可能性は低いというのであつて、結局患者の死因を確定するのは不可能のように思われる。

次に前記野嶽鑑定書によれば、もつとも高度の蓋然性を有する死因としては一応羊水栓塞症(肺栓塞症)或は分娩後血管虚脱などの産科ショックが挙げられるとし、その本件患者がかなりの長期にわたつて妊娠中毒症に罹患していたことから分娩後血管虚脱になり易い可能性があつたし、出産後一二時間という短時間に死の転帰をとつているので当然産科ショックが想定されるというのであるが、前記我妻助言によれば、産科ショックの可能性は否定できないが、右は通常帝王切開中又は直後におこるものであつて、その頻度はそれ程高いものでないというのであつて、本件のごとく死後に病理的解剖が施行されず各重要臓器の病理組織学的検索が十分に行なわれていない事案についてその死因を決定することは、もはや不可能であると思われる。

第三、次に、被告人の過失の有無およびそれがあつた場合、その過失と本件患者の死との因果関係を検討する。

本件帝王切開手術施行前の措置および帝王切開手術の実施過程については、前記認定のとおり、被告人は患者の妊娠中毒症を早期に発見し、入院加療または内科医嶺崎医師、同斉藤医師の協力指示等により適切な処置を行い、患者の胎盤機能不全のため分娩時にさきだち帝王切開術により二三六〇グラムの未熟児を得たことは、帝王切開手術の施行が適切であつたと認められ、術前に心電図を測定した点、手術の実施過程そのものについては、記録上適切を欠く点が認められず、麻酔の施行も、未熟児に呼吸障碍をおこさせることなく、児を娩出し得た点から被告人の麻酔技術はむしろ優れたものであつたと認められ、また術中ソーアミンの点滴静注の施行は適切で、これらの点について被告人の過失は認め難いといわなくてはならぬと思われる。

次に術後措置について考察する。

検察官は、本件患者の死因を術後ショックとし患者は妊娠中毒症により高血圧が約二ケ月間存続していたので、手術後の経過が悪化することも予想されるから自ら適時回診を行うか、又は宿直者をして正確なる観察記録を報告せしめて悪化のおそれのある場合には直ちにこれに対する医療措置をとるべきであるのにこれを怠り帰室後一〇時間にわたつて看護婦、準看護婦の資格を有しない高橋カツ子、平野暁子にまかせて一回も回診しないのみか、前記のとおり午後一〇時ころ高橋カツ子から脈搏が正常でない旨の報告をうけたのに注射を指示したのみで回診をしなかつたところに業務上過失が存在すると主張するところである。

そして前記我妻助言および同人の証言によれば、術後ショック死であると仮定すれば術後から死亡に到るまでの間に被告人が回診して輸血、輸液、強心剤、末梢血管収縮剤、副腎皮質ホルモン剤等の投与を行えば患者は死をまぬがれ又は死期を延ばすことができた可能性は極めて高いといい、又仮りに本件死因が肺浮腫によるものであるとすれば、肺浮腫発生の前には患者の脈搏、呼吸数が増加し、呼吸困難の訴えがあり、聴診により肺野に湿性ラ音を聴取する等の症状を呈するので被告人が早期に診断して強心剤投与、瀉血、酸素投与を行なえば死を防ぎ、或は死期を延ばし得た可能性は高いというのであるが、前記認定のとおり、本件死因は術後ショックとは断定しがたく、また肺浮腫の可能性について右我妻助言は、患者の術前の心電図所見が正常で、術前に心機能不全を示していないこと、肺浮腫のおこる直前およびおこつてからは、患者は高度の呼吸困難を訴え、咳発作、血痰等を出し苦悶状態を示すことが多いというものであつて本件患者の場合はこのような所見もなく被告人が回診したとしても右症状を発見し得たとは認められず、従つて本件患者の死を防ぎ、或は死期を延ばし得た可能性が高いとはいえないように思われる。

弁護人は本件の死因は産科ショックであると主張し、前記野嶽鑑定書によれば、産科ショックは致命的で、不可逆的転帰をとるといわれ、たとい多数の医師と整備された医療設備を有する大病院において症状の発現を早期に発見し、直ちに適切な処置がとられたとしても不幸な転帰をとるものが全例で、救命された報告は二、三に止まるとされ、また本症の一部の例においては、血液理化学検査特に血清ナトリウム、血清カリウム量、副腎機能検査が行なわれていれば、その発生を予知しうる場合のあることも想定されるけれども、これらの検査は、一般臨床医に医療上要求されている検査ではないのみか、たとい発症に際し、このような検査が行なわれていたとしても、検査結果が判明するまえに死の転帰をとつている可能性の方が大であるとし本件についての帝王切開施行術中、術後を通して本症の発現機序を認め得ず、これらの症状の発現は帰室後死亡までの約八時間に起つたもので、しかも無症状かつ急速な経過を辿り死に到つたものといえようから、被告人が本症を発見し得たとしても必らずしも救命しえたとは考えられず、まして本症発現の予知は不可能であつたと断ぜざるを得ないというのであるが、しかし、たとえ本件患者の死因が産科ショックで、その発現予知が一般臨床医にとつてほとんど不可能で、本症が発現すれば不幸な転帰をとるものが全例で救命されるものは二、三の例に止まると言うのであつたとしても本件患者の死亡が全く不可避的なものと断定しうる前の時点においては、医術を業とする医師としては症状の推移を注視し、異状発現にそなえその治療に当るべき相当の注意義務が存するものといわなければならないと解される。そこで被告人が相当の注意義務を果したか否かの点について考察する。

(一)  看護婦、準看護婦の資格を有しない高橋カツ子、平野暁子が当直任務を担当した点につき考えるに、被告人医院はいわゆる診療所であつて、無資格の看護婦のみが当直看護を担当したとしても、それは望ましい姿でないが法令上の違反があるとはいえず、また高橋カツ子の第三回および第四回公判の供述によれば同女は昭和三一年一〇月から被告人医院に見習い看護婦として勤務し、宿直勤務の経験は七年に及び、血圧、検温、検脈および静脈注射等を被告人より教わり、帝王切開手術患者の看護に経験も多く、被告人に命ぜられて患者の容態を観察する能力においては看護婦、準看護婦のそれにさして欠けるものがあつたとは認められず、また、被告人は、右高橋カツ子等の当直室から一〇メートルの距離にある同棟の居室に当直を兼ねて居住しているわけで、右高橋らから患者の容態の推移の報告も受けやすくその病状の急変に即応できる体制をそなえているわけで、当直態様に過失ありとは認め難い。

(二)  病室における患者の看護の方法の点につき按ずるに、本件患者の場合は特に終夜酸素吸入を継続するとの措置をとるばかりか暑気を防止するため患者の枕元に携帯用の扇風器を廻わす等の措置をとり通常産婦の看護の場合は、当直看護婦が毎夜午後一〇時ころ、一回病室をまわつて患者の異状をたしかめ、被告人にその旨を報告していたのであるが、本件患者の場合は帝王切開患者として帰室後一時間ごとに高橋カツ子が病室をおとずれ、血圧、脈搏を測定し、尿量を調査し、患者の一般状態を観察して被告人にその都度報告していたことが認められ同女の看護方法に過失があつたとは認め難く、一七日午前二時ころ高橋カツ子が患者の病室をおとずれた際はガラス窓越しに患者を観察したにとどまるが、右は深夜であつて、田原章夫が患者をうちわであおいだりしており患者の状態に異常を認めなかつたため入室して容態を見なかつたわけで、この点についても同女の看護方法に過失があつたとは認め難く、従つて同女に看護を命じた被告人の過失は存しないと思われる。

(三)  被告人は一六日午後一〇時ころ、高橋カツ子から患者の脈搏の弱いこと、呼吸の荒らいことを聴取しながら、同女に、前記注射をするよう命じたのみで自ら病室へ赴いて患者を診察しなかつた点を按ずるに、前記のとおり本件患者を長期にわたつて診察治療を続けて患者の容態を熟知し、本件帝王切開においては出血量も少なく、無事未熟児を娩出させ通常一時間を要する右手術が虫垂切除をふくめて四五分で完了したこと、エーテル麻酔使用の手術後患者の頻脈が継続することを熟知している被告人が前記のとおり七年間の経験を有する見習看護婦から患者の血圧、尿量その他の一般症状に特段の異変がなく、脈が弱く、呼吸が荒いという報告を受けた場合、しばらくして脈や呼吸が平常に戻るか他の症状も悪化の傾向を辿るか静観し、時宜に応じて直ちに患者の許へ駆けつける態勢をとつていれば足りるともいえないことはなく、この点被告人は術後婦長森本芳子に患者の帰室後利尿薬のビタカン、ジキラノーゲンC、ブドウ糖の混合注射薬を注射するよう命じておいたのに同日午後一〇時現在まだ注射してなかつたことを知つて、患者に対し当座なすべき処置を高橋カツ子に命じたものと認められるところ、このような場合、医師である被告人が回診すれば、見習看護婦では判明しない患者の身体症状に気付くかも知れないから患者の脈搏の弱いことや呼吸の荒いことについて報告を受けた場合には、医師の手術後間もない患者に対する態度としては特段の事由の存しない限り回診するのが一般論としては望ましいことであるが前記詳述した諸事情の許では被告人の右判断にも相当な理由があつて咎めるに価するものともいえないから本件では被告人に回診を期待し、刑事責任を問うことはできないと認められ、被告人に対し右不回診の事実をとらえ、業務上の過失が存すると断定することはできないと解せられる。

次に被告人は就寝前の午後一二時ころ当直室に赴いて、高橋カツ子から患者の尿量ならびに一般状態を聴取し患者を回診しなかつたのであるが、右は深夜で術後患者の睡眠および容態に変化のなかつた点を考慮すれば責むべき事情とは考えられず、右宿直室をおとずれたのは手術前の本件患者に対する治療行為とともに、被告人の細心の注意力を示すものであつて、この点についても被告人に過失があつたといえない。以上の外被告人に対し、業務上の過失があつたと認めるに足る証拠がないので、結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(井上謙次郎 松田光正 榊五十雄)

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